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ファーマーズ広場

新しい農業のカタチ、最先端の畑 『川嶋ハウス』の水耕栽培

2012年05月01日 - 東区箱崎 川嶋正光さん


 東区松島の住宅街の一角に、整然としたハウスが建ち並びます。ハウスの中をのぞくと、腰の高さほどに白いシートが張られ、緑の小ネギがきれいに整列しています。ここは水耕栽培で「箱崎小町」(小ネギ)を作る川嶋ハウスの”畑”です。平成11年から行われている最先端の”畑”です。

水耕栽培を始めたきっかけは?
正光さん
当時、40歳代の私たち夫婦だけで無理なく続けられるベストな農業の方法は何だろうかと考えました。情報を収集し、各地へ視察に行きました。その中で、水耕栽培が目に留まりました。年間を通して出荷量が安定し、計画的に生産できる方法です。これでネギを育てようと思い、農協に相談。水耕システムを導入しました。

ここでの水耕栽培はどのように行われているのですか
正光さん
水が重要です。水に肥料を溶かした養液を水耕田に流します。水質、水温は常に管理。水耕栽培は土壌で発生する病原菌の侵入を防ぐことができ、農薬を使う必要がほとんどありません。それにハウスで育てることで、風水害や害虫を防げます。
 年間7〜8回収穫します。現在のように順調にいくまでには、3〜4年かかったかな。空きスペースができないよう、また逆に生長がダブり定植場所が足りなくならないよう、種まきから収穫までの日数を綿密に計算します。

ご家族で農園を運営されているのですね
正光さん
 母や三男、親戚の者が手伝ってくれています。後継者は長男です。息子が自分の理想とする農業を掲げるその時までに、私は息子に負担になるものを無くしておきたいと思っています。
 私が就農した頃は、同年代の仲間がいたことが作業の上でも、精神的にも随分力になりました。息子が考えることは大切に受け止めようと思っています。

正信さん
 小さい頃から自分が農業を継ぐと言っていました。父に教わりながら就農して6年目です。作業内容については把握できました。現在、青年農業者連絡会に入会しており、同年代の農業者の方たちと情報交換をしています。毎日、ネギの生長具合をよく観察し、見極めることが大切だと痛感しています。1日の作業の終わりには必ずハウスを見回っています。

現在、思うことは?
正光さん
 販売までを携わりたいと思っています。先祖が残してくれた土地を守っていきたいという強い思いがあります。そのためには農業をきちんと続けていきたいと考えています。
正信さん
 冬から春先は午前中に仕事が終わります。この期間、午後の時間に冬野菜を作るなど効率よくできないかと模索中です。あとは契約栽培を拡大していきたいと思っています。

地産地消で子どもたちが安心して食べられる白ネギを作っています

2012年04月01日 - 東区和白 久保田 政幸さん


 東区塩浜で「和白ネギ」(白ネギ)を栽培する久保田政幸さん。「就農して55年になります。55年と聞くと長いなと思うでしょうけど、経験はたったの55回。それに気候は毎年違う。こう考えると少ない経験でしょ!」と話します。
 昭和31年、農学校卒業し就農。久保田さんが就農した後の昭和30年代後半から40年代は、農業が機械化に移行された頃でした。機械化する前の農作業には今とは比べようのないほどの労力と時間が費やされ、農作業は大変なものだったそうです。収穫したものは牛馬を使って出荷場(当時は千代町)に運搬していました。久保田さんは自動車免許を取得し車を購入。昭和40年に農業機械を購入。それまで鍬ひとつで行っていた白ネギの高い土寄せ作業が随分と便利で楽になり、家族4人で2〜3日かかっていた作業が1時間ほどで、それも一人で終わるようになりました。
 白ネギは冬のみの栽培でしたが、10年前から一年間収穫できる栽培を始めました。
 農薬を極力使用しない栽培法で作ることにこだわる久保田さん。「安全で安心な白ネギを消費者の方に届けたいという思いで作っています。福岡市の要請で給食用に出荷しています。白ネギの青い部分をよく見ると小さな白い点々が見えることがあります。これはスリップスという小さな虫が食べた後。減農薬の証しです。見た目のいいものを要求されますが、大切なのは外見じゃないんです。このようなものを子どもに食べさせたほうが安心だと市の担当職員に説明すると納得していただけました。地産地消で子どもたちが安心して食べられる白ネギを作っていきます」
 現在、共同出荷しているのは10人ほど。50年程前の最盛期には30人ぐらいいましたが、首脳者の高齢化とともに少なくなりました。そんな中で久保田さんは「健康な限りまだまだ作っていきます」と力強い言葉。「始めるにはもう年を取りすぎたかもしれませんが、ネット販売も出来たらいいなと数年前から考えています。もう頭がついていかんけどね」と笑顔で語ります。 

あきらめずに続けて良かった イチゴ栽培は私の元気の源です

2012年03月01日 - 東区勝馬 鍋嶋 悦郎さん、太刀子さん

紅葉した葉を取る<br>「葉かき作業」を<br>しています。<br>細やかな作業は太刀子さんが<br>主に担当します。
紅葉した葉を取る
「葉かき作業」を
しています。
細やかな作業は太刀子さんが
主に担当します。

 勝馬で代々農業を営む家の長男として生まれ育った悦郎さん。農業後継者として糟屋郡立農学校に通いました。「在校中は寄宿舎に入っていました。当時は食糧不足でひもじい思いをしていました。実家に帰ると、自家栽培の夏大豆を母が炒ってくれて、学校に戻るときも持たせてくれました。嬉しかったですね。寄宿舎では宗像の同級生も私と同じようにとうの豆(ソラマメ)を持ってきていたので交換して食べていました。いい思い出です」
 50歳を過ぎてから農業の良さが分かってきたと話す悦郎さん。「長男だから家業を継ぐのは自然の成り行きでした。若い頃は精一杯働きました。イチゴは12月から翌年の5月まで半年間収穫できます。それに家族揃ってできます」と同じ仕事をすることで家族の絆がより深まっていくと言います。共に励んできた妻の太刀子さんは、以前、志賀島の育苗品評会で3年連続受賞しています。
 悦郎さんは今期の栽培について話します。「苗の生育が芳しくなく、今期は栽培を縮小しようと考えていました。でも、望みを捨てたくないという家内の強い思いもあり、農協に相談したところ、すぐに新しい苗の手配をしてもらえ、本当に感謝しています。お陰で今期も例年同様の収穫量になりそうです。あきらめずに続けて良かったとしみじみ思っています」
 悦郎さんは来期に向けて、高設栽培を、先に始めたイチゴ栽培者に教わりながら始めました。「80歳の一年生ですよ(笑)。作業は立ったまま出来るので随分楽です。今からワクワクして栽培が楽しみです。イチゴは手をかけるほど品質の良いものができます。栽培は私の元気の源、活力のもとです」

一番果の花が咲き、赤いイチゴが実ったとき栽培の喜びを感じます

2012年02月01日 - 東区三苫 堺博行さん


【試行錯誤の繰り返しでした】 
家業を継ぎ、イチゴ一筋五十数年。今まで幾つの品種を作ったでしょうか。病気に強いもの弱いもの、収量が多いもの少ないものと、それぞれ一長一短あります。品種が変わるごとに栽培方法も変わるので試行錯誤しながら栽培していました。一番大変だったのは、静岡県久能の石垣イチゴのように(太陽の光がよく当るように)ブロックを階段状に積み、わずかなスペースに苗を定植して作ったときです。これはブロックを積み上げていくのが重労働!また、今のようにポット苗ではなく露地の苗だったので作業もはかどりませんでした。ハウス栽培になってからも苗は露地栽培。苗数は4万本ぐらい。しかもイチゴの病気発生を防ぐために福間に畑を借りて栽培していました。若かったから出来たようなもの、今ならとても無理ですね(笑)。

【灌水と温度管理が肝心】
 イチゴ栽培に欠かせないのは灌水の管理。イチゴは非常に水を好みますが与えすぎると根が腐ってしまいます。イチゴの状態を観ながら、灌水の時間を考え温度管理をしなければいけません。昔は一日に一度だけでは安心できず何度もイチゴ畑に通っていました。今では長年の経験からくる勘で、天候を観て失敗することなく栽培しています。一番果の花が咲き、赤いイチゴが実ったときには、やはり栽培の喜びを感じます。

 現在、頼もしいことに三苫のイチゴ栽培を継承する若者が数人育ってきています。嬉しいですね。私たちの時代と全く同様の栽培・経営方法では難しい面もあると思いますが、ぜひ頑張っていただきたいと思います。私たちも協力を惜しまず応援していきます。